みっちゃんの営み

会社員を辞め「やりたいこと」をやって生きてくまでの道のり。36歳┃デザイナーとして10年会社勤め→退社→🇦🇺留学→帰国┃フリーランスデザイナー・バーテン・シェアハウス運営・デザイン学校通学・英語勉強・ボランティア┃日々の葛藤を書いてます。

肩書きは必要なのか?

あまり出世欲ってのも持ってなかったから、会社員のころも役職をいただき、自分に肩書きがついたときもそんなにピンと来てなかったことを覚えている。

どちらかというと、アンチ肩書きで、肩書きの上に座って何もしない人、またプライベートの領域までその肩書きで踏み込まれるのが大嫌いだった。

本当に大嫌い。


しかし今、フリーの身となって、自分の必要に応じて様々な環境で働く中、あれだけ嫌いだった肩書きを切に欲してきている。

 

特に初めてお会いする方。

自分がやっていることをそのまま話しても、

「で、結局なにやってる人なの?」

ということになる。

 

わかりやすく、一言で言い表せられる肩書きが必要だ。

振り返ってみると、自分としても誰かから何か依頼をされたとき、頭の中で検索をかけるときは、名前よりも肩書きだ。

「海外から友達が来るので、泊まれるところを探している」

となれば、頭に打ち込むキーワードは、シェアハウス、ゲストハウスだし、

「イベントに出演してもらえる人を探してる」

であれば、アイドル、芸人、役者、DJ…と、依頼に応じてまず頭に浮かぶのは、名前よりも肩書きだ。


自己紹介のときにも、肩書き一発が与える印象は大きく、多く言葉を発さずともお互いの共通認識である程度「こういう人」というのが、理解できる。


どこぞやの人の考え方によると、ユニークな肩書きを持つことを勧めていたりもするが、自分の肌感覚とすれば、既存のものでまず自分に肩書きを与えた方がいいと思う。

相当キャッチーでわかりやすいものであれば、まぁいいかもしれないが、自分が受ける印象としては、最初のインパクトのみで、あんまりそういう人は信用できない。

YouTuberってのも結構ギリギリで、ある程度社会人として仕事をしてきた身からすると、その肩書きから、その人が仕事できる人なのか、そうでないのかが判断しにくい。

言えば、なれる世界っていうのが、影響が強いのだと思うけど。


とにかくも、自分が色んな人と会って、自己紹介の試行錯誤を重ねていく中で思う良き肩書きは、普遍性があった方が、相手に伝わりやすいなと。

その上で、こんなこともあんなこともやっていると、加えていった方が、相手に興味を持ってもらえることが多いかなと。

なので、最近では自分は「デザイナー」であることをまず説明するようにしている。

 


結論。
肩書きはあった方が絶対的によく、それは普遍的でわかりやすいものがよい。

自分の弱点

会社員という枠組みから外れ、給料に生活が保障されなくなり自分の身で稼いでいかないといけない環境になったとき、浮かび上がってきた自分の弱点。

 

それは「欲」

 

金に対しても、物に対しても、もしかしたら性欲に対しても(?)

あらゆる欲が僕はそんなに強くない。これって今この状況下では非常によくないことだなぁ、と痛感している。


周りの成功者を見回してみても、やっぱり強欲の方が多いし、成功の度合いも欲に比例してるように思う。

(何を持っての成功かは人によって異なるが、ここでは金を稼げる人と定義)


僕はそんな強欲な人間があまり好きでない。むしろ結構嫌いだ。

そんな人たちを見て、彼らを反面教師として見た結果、今の自分があるところもある。

 

しかしだな。

自分がスタックしたとき、また、大きな変化が必要なときって、皮肉にもそんな"嫌いな人"から事を学ばされる。

必要悪というか、自分が"嫌い"と思うのには主に2つの理由があると考えていて、一つは、価値観が180度異なる人。そしてもう一つは、自分に似すぎている人だ。


今回に至っては前者で、全く異なる価値観を自分に取り入れなければならない状況だ。

いざ、そんな180度違う価値観で、世界を見てみたとき、もっと自分がわがままでもいいだと気付けるし、またわがままな自分を欲してる人さえいることに気が付ける。

周りの会話とかも聞いてみても、みんなわがままに話をしてんだなーと。人の話から、自分のわがままに引っ張ってこれる糸口を探しているというか。

極端に言えばね。


そんなことに気が付けてくると、自分がわがままになることは悪ではないなと思い始めた今日このごろ。

お金は後からついてくる…?

今、非常にモヤモヤしている。
すんごくモヤモヤしている。

定職がないながらも、日々忙しく充実を覚える毎日。土日の概念ももうなくなり週7日間、みっちりスケジュールが詰まっている。

すんごく忙しい。けど、「やりたいこと」をやっていれば、どんなに忙しくてもそこにストレスはないって本当なんだなーと実感している。


だが、しかしだ。


金がない!

人の需要に応えて、一生懸命こなしていけばお金は後からついてくるだろう、と信念といえば、信念、楽観といえば楽観の下、やってきているが、現実問題、全然金にならない(笑)


全て自分が選んでやっていることで、決して間違ったことはやってるとは思わないのだが、生活を考え、それを維持できない状況が垣間見えてくるとやはり、そこに疑問を感じざるを得ない。


3ヶ月ほど前から、秋葉原のショップでバイトをしてはいるが、諸々会社の都合でシフトが激減した。

それはそれとして、新たに稼ぐ手段を考える時間を持つためのいい機会だなと思ったが、色々重なって忙しさは変わらずで、お金という面だけで見ると負のループに陥っている。


というわけで、今日の教訓。

「お金はついてくるべくところで頑張った先についてくる」

…のかな。

いや、そうであって欲しくない、捨てきれない思いがあるが、今日の今日時点ではそう感じている。

ブログを書くということ

ここ最近、全く違う方面から僕にブログを書くことを勧められたので、改めてそれについて考えたいと思う。

それを勧めてくれたうちの一人は、初対面の方で、自分の今に至るまでを話したのをキッカケにその話が出た。

また、他の一人は親しき仲で、一緒によく飲むし、お互い色々と協力するし、という関係で、このブログを始めとして、僕が書く文を評価してくれて話が出た。


手前味噌ながら、僕が書く文章を好いてくれたり、わかりやすい、面白いと言ってくれる人はこれまでもちょいちょいいてくれて。

しかし今回、改めて「書くこと」を“勧められた”ことが重なったので、改めて自分自身に問いかけ、ブログを書く理由とその必要性、そして今後について考えを書き出したいと思う。


そもそも僕はなぜブログを書くのか?
出だしからではあるが、全てはここに尽きる。

ブログはずっと書いてきてはいるものの、ちょいちょいコンセプトを立て直しては、更新を止め、別のブログを立ち上げてはまた書き始めている。

とりわけ今、このブログのコンセプトとしては、会社員という生き方から外れ、肩書きという肩書きがない中、今自分がしてることを伝えるためのポートフォリオ的なコンセプトの下、書いている。


ブログを書く必要はあるのか?
確かにブログなんか書かなくたって、人は生きていける。書いてる暇があるなら、別のことやった方がいいという価値観だってある。

ブログを書いている人それぞれにその必要性はあるだろうと思うが僕に関して言えば、今色んなことに関わらせてもらっている中で、それらがちゃんと一本につながっているか?そして、向かいたい方向に向かえているのか?

それを"書く"という行為を通して確認している。


「仕事」って極論、人のためになること、その行為だと思う。

しかし、なんの考えもなしにただ人のために務めるというのは、やがて自分を失わさせるんだよね。

自分がなぜ今それをしているのか?を自分自身で理解していないといけない。


ただの奉仕ではなく、それをすることによる対価を自分で考えなくてはいけないと思っている。


ありがたいことに今、色んな方面から「あれできないか?これできないか?」というお願い、相談を色々寄せていただけている。


中には謝礼をいただける案件もあるのだけど、言っても先方にも予算があり、時給という形がほとんどで、自分の生活を考えると十分ではない。

それでも、その人のために自分がそれをやるためには、自分でその価値を見出さなくてはならない。

その仕事に対する対価・価値は、与えられるものでなく、自分で作ることによって、仕事の質に変えていくものだと思っている。


僕の場合は、「A」というお願いに対して、自分が抱えている「B」という課題の解決につながらないだろうか。また、他の人の何かの解決にも繋がらないだろうか。もしくは、その案件をキッカケにあの人とこの人を繋げられないだろうか。


そういう風に、点と点をつなげるために、僕はブログを書くことにより、頭の中を定期的に整理し、整頓するために役立っているように思う。


発信するということ
ブログを書き続けているものの、とある一線でいつもブレーキをかけてしまう自分がいる気がしている。

公の場に発信するということは、それを誰かに読んでもらったり、聴いてもらったりするわけで、人からその時間を頂戴するということだ。

時間を頂戴するからには、それ相応かそれ以上の価値をその人に与える必要があると考えている。


…のだけど。


自分が書くブログはそれに至ってない。

誰のためでもなく、自分のために書いているからだ。

多少たりとも人の目を意識することで、ちゃんと文章にすることができるから、公開とさせてもらっている。


ここが長年の課題だ。


人にとって価値あるものにすべきか、否か。


一時、人のためになることを意識したブログを書いていた時期もある。

だが、しかし、それって自分にとって面白いものとは感じられずすぐに辞めてしまった。


“人のため”ばかりを気にし過ぎると、本音から遠ざかる気がしたからだ。


であれば、このままでいいじゃないか。

と、行き着くだろう。


しかし、それはそれで、すごく弱いものなのだ。

人のためであれ、自分のためであれ、やるとなれば長く続けたい。更新を止めては、コンセプトを変え新しくブログを立ち上げたのも、続けられるコンセプトの模索のためだった。

自分のために書いていると、そのとき自分が抱えていた課題の解決の糸口が見えたとき、もしくは単純にめちゃくちゃ忙しくなったとき、書く気、続ける気がフッと消える。


自分が誰のためにでも書いているわけでもないので、辞めるのは非常に簡単なのだ。


なので、やっぱり自分が目標としている“続ける”を考えたとき、多少たりとも人のためになることを意識する必要はあるなと思っている。

 

自分のためにもなり、人のためとなるその交点はなんだろう?

であれば、目指すべきは、自分の行動を経て得た経験の整理となり、それを人に有益な情報として与えられる形となったとき、双方にとっての価値となるだろう。

今はまだ、どういう風に書いていくかは具体的なイメージを持てていないが、意識する方向が作れれば、おのずと色々変わっていくだろうと思う。

今を生きるための試行錯誤の対象は自分だけでなくてもいいかな?とちらっと思っている。

こんな風に生きている人もいるんだよ、というのを文に起こし、読む人々に自分の生き方の選択の何かしらのヒントになることができたら、それはいい価値になるのではないかなと。


書いて欲しい人、いるかな?笑


とりあえず、これはこれでまた温めてちゃんと募集もかけてみようかな。

何も特別な生き方をしてる必要はないと思う。

自分の日常って、案外他人にとっては全くの非日常だったりするわけだし。

 

とは言っても「やりたいこと」をやって生きるってのも大変なことだ

なかなか大変な時期だ。
なんだかんだ留学から帰国して、7ヶ月。

このブログの更新頻度にも現れているよう、帰国直後は意気揚々と自分の思いだの、日々感じることが溢れては筆が走っていたのだが、ここ最近は日々のToDoをこなすことに一所懸命で、あまり俯瞰して自分のこの先を見れてない気がしている。

日々のToDoを一所懸命にこなすことは、会社員のころからやってきていることだし、今、一所懸命にやってることは、決して間違っていることでないと思ってる。

しかし、以前のそれと決定的に異なるのが、自分の生活が"給料"によって保証されていないという点だ。

どんなに時間をかけて一所懸命やったとしても、お金にならないことだって多々ある。

お金になることでも、制作タームによっては、現在着手していることの支払いが3ヶ月後、4ヶ月後というのもある。


今、ちょうどその狭間に立っていて。「やりたいこと」はやれているんだけど、反面キャッシュフローが非常に悪い状況で金欠だ。


これは、フリーランスになるための洗練だなと思って信じて踏ん張ってる。

それはそれとして。

 

"給料"というものに保証されない中で「お金になること」と「そうでないこと」のバランスを取ることって改めて非常に難しいことだなぁと実感を覚えてる。


お金になること、ならないことの分岐に先に、「自分がやりたいこと」か「そうでないこと」かというものある。

これがまた、先の分岐よりも曖昧でわかりにくいのでやっかいなのだ。

自分がやりたいことにつながる気がしたけど、やってみたらちょっと違うかも?と感じたり、逆のパターンも有り得る。

その辺、ホントやってみなきゃ判断がつけられないから、一種のリスクでもある。

 

今日に至るまで、色々試行錯誤して今関わらせてもらっていることは、自分の「やりたいこと」につながっていると思っている。

だが、しかし。

別問題として、どこか満たされてない自分もそこにはいて。
わがままだなーと自分でも思うけど。


いろんな経験して思う。
ひとえに「やりたいこと」をして生きていくと言っても、ただただ、それを追求するだけでは叶わないんだなぁと。

そこに自分の仕事・存在が肯定されること、自分らしさが出せること、というものがまた別軸であって、その交点に立ててるときが一番気持ちいいなーと思うし、それこそが自分が生きたい世界なんじゃないかなぁと思う。

今してること(2019年8月「実務・実績」編)

ブログを書く、という行為はどうも「自分の考えを書く」に寄りがち。

それはそれでいい。けど、僕はこのブログの趣旨として「会社員という枠組みから離れ、肩書きを無くした今、実際に何をして生きているのか」を伝えるためのポートフォリオを作る目的もあったりするので、実際的なことを書き残していきたい。


まず、デザイナーとして。
自分がPOP カルチャー界のロゴデザイナーになると決めてから、ありがたくもその界隈からいくつか依頼をいただいた。

秋葉原のDJイベントのポスター、フライヤーのデザインに始まり、中国深センで行われた秋葉原カルチャーを紹介するフェスのイベントポップのデザインを行いました。

また、同じクライアントから現在グッズ制作の依頼もいただき、2019年8月末現在デザイン中です。


他には、先日起業した友人がアイドルを立ち上げるプロジェクトにも関わっており、そのロゴデザインの依頼もいただけました。

友人の後押しのサポートも手伝ってくれて最終案まで残り、最後にはクライアントさん内での公平な多数決で晴れて採用をいただきました。

蓋を開けてみれば、様々なクリエイターから140案以上も応募があったプロジェクトだったので、その中から採用をいただけたことは自信に繋がったなぁー。

しかし、ここからがプロジェクトのスタート。プロジェクト成功のためにまた僕にできることがあれば、貢献させていただきたいなぁと思う。

デザインは、また発表のタイミングで紹介させてもらえればと思います。


次に、秋葉原のショップについて。

なんでもお店自体がオープンしてまだ一年経っていないこともあり、色々構築中の中での入社だったので、バイトという立場でありながらも、これまでの現場経験から活かせることも多々あるなぁと。

前職はデザイナー、アートディレクターという立場で携わってきたものの、曲がりなりにも音楽プロダクションの社員としてやってきて、武道館や各ホール、ドーム公演まで一通りの現場でスタッフとして経験させてもらったことは身に付いているんだなぁと実感。

また、従来から作り手において、現場を知ることは大切だと思っていて、どんな人が、どんな環境で作品、商品を見るのか。そういう感覚的情報を知ってるか、知らないかでできるものも大きく変わってくると思う。

なので、自分の経験の貢献と新たな業界の情報の獲得とで、Give & Takeできてるのではないかな、と思ってます。


次はゴールデン街

こちらも引き続き続けさせてもらっていて、色んな国の方たちと英語で話す機会に恵まれています。

その中で最近嬉しく思うのは、僕がカウンターに立つ平日の17:00〜20:00という割と早く短めな時間帯の中で、数少ない日本人のお客さんの何人かが常連になってくれたこと。

元々は英語を話すために始めたバーテンの仕事ですが、フードもなく、特に気の利いたカクテルが作れるわけでもないこの店で、常連さんというものができてくると、人々が求めるのは"人"なんだなぁと思ってきました。

僕自身、というか、僕を介して集まる人の中で一種の居心地の良さを感じくれる人がいるんだな、と。この辺りの感覚は、今運営してるシェアハウスや他の今後の場づくりに影響してきそうだなぁと思う。


そしてもう一つは、友達と共同でやってるサイト運営。

アフィリエイトのサイトなのだけど、ほぼ毎日、地道に更新を続け、少しずつまとまった収益になってきている感じ。

こうお金に結び付いているのを見ていると、成熟したサービスの中にも隠れた需要があるもんだなぁと思いながら、淡々と更新してます。

もちろん、お金を稼ぐためであるが、自分的には共同でやってる彼と一緒にやることに意義を感じているので、内容云々より、彼とお金を回すことがモチベーション。


最後に、番外編として。

運営しているシェアハウスがある阿佐ヶ谷にて、年一の一大祭り「七夕まつり」のお手伝いも今年も行いました。

お世話になってる地域の方たちがいて、毎年お手伝いさせてもらっています。今年は脱サラしたことにより、日程の自由がある程度効いて、平日を含むお祭り期間5日間、ほぼほぼ携わらせていただきました。

七夕よろしく、この時期になって会える人たちや、またお手伝いを呼びかけて、快く引き受けてくれる人。

特に今年は留学明けからの一年越しということもあり、こう頼っていただけた方、また集まってくれた方に改めて強く思うことがあったなぁ。

ありがとう!この場を借りて。


なかなかボリューミーになりましたが、とりあえずこんな感じかな。

この記事を執筆現在、他にも進行中の話もあり、また面白くなっていく予感があるので、また次の更新のときにその辺りが書ければなぁと思います。

今してること(2019年8月「思想」編)

気が付けば夏も終盤。ブログの更新も前回から1カ月が空いてしまいました。

自分が進んでる道に足跡を残すように、Twitterにはちょいちょいにポストしているのだけど、ブログは書くのに時間が必要ね。

でもブログを書いてないと、船から投げ出された宇宙飛行士のような気持ちになる。自分が何のために今、これらをやっているのか、そしてどこへ向かおうとしてるのかが分からなくなって、とっても不安になっちゃうんよね。

しかし、実際に宇宙で船から投げ出されたら、もっと絶望だろうけど。まぁ、とにかくそんな感じ。


さて、留学から帰国して5ヶ月。金銭的には低空飛行を維持しながらも、試行錯誤を経て、うまーくパズルがハマってきたなぁという今日この頃。

日々、色々やっているのだけど、向かう先は一つで「自国の良きところを自覚して日本人として誇りを持つ」ことが目的。そのために今、世界に類を見ない日本のポップカルチャー(アニメ、マンガ、ゲーム)に着目していて、今までの自分のキャリアとの交点から、ロゴデザイナーなることを決意した。

色んな運が重なって、なんとかその業界に身を置くことができ、日々吸収中、な感じです。


今まで、デザインの仕事に長く関わってきた中で、作り手のバックグラウンドにないものは、モノとしてできたときに弱いと感ずることがあって。

これまでは、イメージを具現化できることが、デザイナーに求められる仕事だったので、それでよかったのだと思うのだけど、消費者の成熟とテクノロジーの進化で誰でもある程度のモノはそんなにお金もかけずに、作れる時代になったんだよね。

下手したら、デザイナーでなくても、デザインしたいもののバックグラウンドを持ってるアマチュアの方が的を射たいいモノが作れてしまう場合だってあったりする。

正直デザイナーというプレイヤーからは身を引こうと思っていた。どんなものでもある程度デザインできるというよりかは、スキルが浅くとも、デザインしたいモノのバックグラウンドを持っている人にデザインをお願いして、ディレクションして整えてあげた方が結果として深いもの、今の時代に求められるクオリティーが出せるという実感があったからだ。


しかし、生計を立てるためにデザイン以外にも色々な職人の下で、様々な仕事を経験した中で、自分のキャリアは活かした方がいいことに気がつかされた。

スキルというものには2種類ある。一つは表面的スキル、そしてもう一つは感覚的スキル。

後者ってのは、時間と経験をかけなきゃ育たない。近道はない。大きな失敗と小さな成功の積み重ねで育つ。
そしてそれは、感覚として定着してくるものだから、やがて意識して考えなくともできるようになっていくもの。

そんなスキルの存在に気がついた。

自分にとってデザインは、そこまで行き着いてのわけだから、勿体ないよなぁと思ったわけです。

では、ロゴデザイナーになるために何を磨くべきかとすれば、バックグラウンドなワケで、そんな理由で毎日アニメを観て、秋葉原の店頭に立ってオタクたちと接して彼らの話を聞いて、商品を見まくり、今まで触れてこなかった作品に触れている。

もちろん、自分の目的のためではあるものの、純粋に楽しんで全部やってる。もう、めちゃくちゃ楽しい。深く知れば知るほどに。

特に人。人から得られるものは大きくて、好きな作品に対する熱量ってのは、なんとも言葉として、文として表すには足りない気がして。やっぱり直接見て、聞いて共に感動すること。そしてその空気を肌で感じること。それがすんごく大事。

こういった、感動の芯の部分をカタチにして、世に出すことが今、デザイナーに対して求められていることなんじゃないかなーと思ってる。

 

はい。

そして、こう日々得られる刺激を、カタチとしてより高いクオリティーで表現するために、表面的なスキルもまだまだ磨く必要があるので、それはデザイン学校に通って自分のスキルにエッジをかけている感じだ。

なんだか、モリモリの近況報告となってしまったが、とにかく楽しくやれています。


ただ、帰国後の予期せぬ税金の徴収等で、金銭的にマズイことになっているので(笑)お金に繋げていかなきゃなぁーというのが、大きな大きな課題。