みっちゃんの営み

会社員を辞め「やりたいこと」をやって生きてくまでの道のり。36歳┃デザイナーとして10年会社勤め→退社→🇦🇺留学→帰国┃フリーランスデザイナー・バーテン・シェアハウス運営・デザイン学校通学・英語勉強・ボランティア┃日々の葛藤を書いてます。

フォロワーの大切さ

前回の記事、「頼まれないこと」をやる勇気のつづきです。

 

自分が真にやりたいこと、自分が満たされるためにやるべきことをやるために舵を切ったその先に生じる「不安」。


それを解消し、自分を前に押し進めるためのヒントをこの回では書こうと思う。

 

 

結論から言うと、それは仲間・フォロワーの存在です。


なんの意外性もないですが、正解という正解がない時代において、見返りを求めず、「やろう!」と決めたことを実行する者を信じて協力してくれる仲間の存在というのは、めちゃくちゃ大きいです。


前回、人のことばっかりやって、自分のことができてないことから、自分の満たされない気持ちを書きました。


それから、半ば無理くりに自分が前からやりたいと思っていたイベントを企画し、実行に移しました。


スケジュール的にもパツパツ。そして、そのイベントにどれだけの集まるかもわからない。


自分がやりたいことを始めたのに、まず感じたのは安心や充実よりも先に不安でした。

 

 

そんな中、


「もし、お前が時間がなくてスタックしてるんだったら、俺にできることをやるぜ」


という一言を友人がかけてくれたとき、一気に肯定感が増しました。


彼の一声に限らず、イベントをSNSでシェアしてくれたり、また、こんな不安定にも関わらず自分を信じてくれてる妻然り。支えてくれる仲間の存在を改めて感じたとき、不安なんか感じてる場合でないな、と気持ちが切り替わりました。

 


「やりたいこと」をやる。


これまでの社会がどこか身を犠牲にして生活をつくる体制だったため、その選択は贅沢に響く人もいるかもしれません。


が、生き方の選択の一つであり、それはそれでまた別の苦悩はついてきます。


もし、また自分の仲間が「やりたいこと」があると、それを実行に移そうとしたとき、無条件でそれを支えられるフォロワーになりたいと改めて思いました。

 


でも、何事もバランスで、自己実現自己実現として別に見据えていないと、やりたくてやってるはずなのに、満たされない気持ちも芽生えるのだなぁと。

「頼まれないこと」をやる勇気

やりたいことをやる、もっと自分らしく生きたいとして、会社員を辞め、留学に出、今に至るものの、なんだか忙しく、なんか満たされない日々。


自分が満たされない理由は、前回の記事に書かせてもらったが、人の期待に応えたい自分がいて、自分がやりたいことと重ねながらも、気が付けばそっちに費やす比重が増え、自分のコンテンツをつくる時間を十分に持てずにモヤモヤ…というもの。

 


やりたいことだし、一緒にやりたい人だし、そこになんの嘘もないし、そこで得られることもたくさんあるのだけど、なかなか難しいよね、その辺のバランス。

 

 


と、いうことで。

自分が真にやりたいこと、というか、自分が満たされるためにやるべきことというか、そこに時間を割くべく舵を切った。


舵を切って早々に感じたのは「不安」。


色々考えて、納得してここに来たのにも関わらず、大っきな不安が襲ってくるんよね。

 

「頼まれたこと」をやるのって、ある意味楽というか。


それをやることによって、解決すること、喜ぶ人、目的、使命が頼まれた時点で明確。

 

だから、向かう先になんの迷いも、不安もない。

 

 

だが、しかし、誰からも頼まれないことをやることって自分の目的以外は全て不明確。

 


自分がそれをやって誰が喜ぶだろうか、社会にとってなんの解決になるのだろうか、それに携わることによる自分の使命とは…。


もう、自分の中で信念立ててやるしかないんよね。


変化の過程で生じた気持ちをありのままに書いているから、弱音っぽい話だけど、そんなこと吐いてる暇はない。

 


無理くり舵を切って、半ば無理やり自分のやりたいことの一つの企画を打ったとき、当然全く時間が追いついてなかったわけだけども、その中で仲間が一言声を掛けてくれたことに、「頼まれないこと」をやる勇気のヒントを得た気がした。

 

つづく。

「クリエイターとクライアントをつなぐ クリエイターズミーティング」開催の動機

先日、「クリエイターとクライアントをつなぐ クリエイターズミーティング Vol.1」たるものを11月16日(土)に開催することを唐突にSNSで告知させていただきました。

その概要はイベントページに記載させていただきましたが、このブログでは、なぜそのイベントをやるに至ったか?その動機について書かせてもらいたいと思います。


端的にいうと、「少しでもお互いを知っている中で仕事をした方が、よりよいパフォーマンスを発揮できるだろう」ということがその動機になります。


現在、数々のクラウドソーシングサービスが現れ、フリーランスとして仕事を始めやすくなったかのように思います。

確かにうまく活用することもできるでしょう。


自分も会社員という枠から離れ、フリーランスとなったとき、早速登録をしました。

しかし、何名かのクライアントの案件を眺めたり、提案をしてみたとき、ものすごい違和感がありました。

活字で書かれた各々の案件に対して、一言二言添えられたテキストと合わせて画像が添付されている。

そして、おまけに他のクリエイターのラフ案も公開されてしまっている。


仕組みとしては大変合理的かもしれません。

が、しかし互いにものづくりに対する熱が感じられなさすぎではないでしょうか?


自分はこれまでのデザイナー、またはアートディレクターという立場のキャリアにおいて、いかに先方の頭の中にあるイメージを具現化するかを考えてきました。


完成に至るまで、何度もプレゼンを行った案件もあります。


やはり、その中で思うのは、クライアントは言語化できないものだから、また困っているのであって、そのモヤモヤしているものの解像度を上げ、どんなものを作ろうとしているのか、それに気付かさせる、というのもデザイナーの仕事の一つなんだと考えます。


そして、そこにお互いの熱が一番こもる部分ではないかと。


もう少し話が膨らむと、仕事の案件とは関係なしにクライアントと飯や飲みにいったりして、過去のことや将来のこと等々、色々とバックグラウンドを知れた人との仕事の方が、デザイナーとしてパフォーマンスを発揮できたことが多いと振り返って思います。

これは、なにもデザイナーという仕事に限ったことではないと思っていて、他業種の周りの友人の仕事を見ていても、誰かのためにと明確に思って行った仕事には良いものが宿っているように感じます。


他にも色々思うことがあっての、今回のイベント開催となりますが、その動機の一番芯の部分を書かせていただきました。


クリエイターの方も、そしてクライアントの方、またあんなことできないか?こんなことできないか?と日々奮闘しているアイデアマンの方。


もし、ご興味を持っていただけましたら、ぜひお気軽にご参加いただければと思います。


今回を皮切りに2,3ヶ月に一度、定期的に開催していきたいと思います。

 

クリエイターとクライアントをつなぐ クリエイターズミーティング Vol.1

イベント概要はこちら
https://www.meetup.com/ja-JP/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0/events/266223853/

 

自分の商品をつくる

最近、日々の充実と反比例してというか、何か満たされないものを抱えてモヤモヤしてる。

以前の記事でも触れたが、自分がやっていることがまだお金として跳ね返ってきていないということもモヤモヤ要因の一つではあると思う。

怒涛に過ぎる日々の最中、ふと、余剰時間ができ、特に目的もなく久々に自分が運営するシェアハウスへ足を運んだとき、モヤモヤの大部分となる要因を発見できたように思う。


「人のことばっかで、自分のことが全然できていない」


こう書くと少しカドが立つような感じになってしまうが、端的にわかりやすく言うとこれだ。

もちろん、関わっていること全てにおいて「面白そう!」なり、「この人のためなら!」なり、「一緒にやりたい!、助けになりたい!」という気持ちを心底思ってやっている。

なので、お金になる、ならないは別として、自分が持てる力をフルに注ぎ込んでいる。

瞬間、瞬間はとてもいい。
そこで新たな仲間とも出会える。

が、「今、自分がやるべきこと」を考えたとき、そこの追求ではないのではないだろうか。


シェアハウスに住人の本が共有の居間の本棚にポンと置かれていた。

何気なくページをめくり現れた一節に今の心情と重なるものがあったので、ここに引用します。

人って、人からものを頼まれて初めて何かを始めます。たいての人はそんな感じ。たいていの人はそうやって生きています。そう思います。

人って、人から何も頼まれていないのにものを創作しだした時、初めてクリエイターになるんだって、そう思います。仕事として頼まれたことをするのって、仕事だよね。でも、それをクリエイションって勘違いしている人がなんと多いことか。人って、お金がなくて、誰からも頼まれなかったら、ものなんて作らないもの。そう思わない?だからこそ、僕はクリエイターを尊敬しちゃいます。

 

ナガオカケンメイの考え
ナガオカ ケンメイ (著)

 
思い当てはめてみると、このシェアハウスも誰かから頼まれてつくったものではなく、これをつくったときや、今ここにいる自分を見つめてみると、満たされるものがある。

社員脳、経営者脳


先日書いた、

とは言っても「やりたいこと」をやって生きるってのも大変なことだ

の記事が、ありがたくも色んな方々より反響をいただき、SNSにコメントをいただけたり、個別にメッセいただけたり、また実際に会いに来てくれたり、飲みに誘っていただいたり…と色んな方々よりリアクションをいただき、様々に共感やご意見、持論をいただけた。


ちょうど、自分のことを「書く」ことの意味を自分に問いていた時期でもあったため、このように色々な反響をいただけたことは、また感慨深かったです。

中でも先日、人生の先輩と飲みにいく機会があり、その話の中で「なるほど」と思わせられることがあったので、ここに記したいと思う。

彼の経験に基づき、彼の言葉で色々と僕にアドバイス、エールを贈ってくれたのだが、その話の中で気が付かせられたのは、自分はまだ社員脳なんだなぁということ。

フリーランスという環境に身を投じているのにも関わらず、努力してる方向が社員的。

仕える人がいて、その評価のために自分の持てる力を提供する。そんながんばり方。


フリーランスなわけだから、仕える人というのは実際にはいない。

が、そういったがんばり方の癖が自分にあって、仕事をいただいているクライアントや、ボランティアの主催に対して向いてしまっていて、今のどんなにがんばろうと、どこか満たされない自分が生まれてしまってるんだろうなと思う。


「お金になること」と「そうでないこと」の狭間で今、もがいているのだが、そんな状況を経営者の視点に立って考えてみると、そんなことでもがいている場合ではないのだ。

経営破たんするか否か、生きるか死ぬかの危機的状況であり、利益を生み出せていないというのは、世の中に価値が提供できてないということ
なのだ。

お金を稼ぐということは、価値を提供するということで、それは直接的に「欲」ではないんだな、と。

そんなことに気が付かされた夜。

学校に通ってることで得れる謎の評価

デザイナーとして10年間、会社勤めをしたキャリアを活かすべく、また今後フリーランスとして、特化性の必要性に駆られ今、改めてデザインの学校に通っている。

 


そんな中で思うのは、自分が今学校に通っているという話をすると、すごいポジティブな反応が返ってくる。

 


自分のキャリアの売りとしては、10年勤めたこと、そこで部署を持たせていただき、肩書きもいただいて従事したことに自分的には置いているのだけど、そんなことよりも、今学校に通ってることの方が周りの反応が良い。すごく良い。

 


学校というのは、まだまだ道の過程であって、インプットの量と質を上げる場であって、そのことに対して自分の評価につながることは、特にないと思っているから、こういう周りの良き反応にはちょっと驚いている。

信用を貯めるだけでは仕方がない

今、時代はお金よりも信用の時代だと言われている。

自分自身、とりわけそれを意識してたわけではないのだけど、生きていく中での居心地の良さ、悪さや、周りの必要に応じていくうちに結果的にありがたくも色んな方々より、信用をいただいていると自負している。


お金は信用だと言われているが、信用を貯めればそのままお金になるってわけでもないんだなと、感じている。

信用社会で生活していくためには、信用を貯めたその先に、信用の換金が必要なんだなと。

一口に信用といっても、その扱われ方は、昔と変わらない点と変わった点がある。

前者に至っては、自分が信用を得ることにより、仕事なり、人なり、自分に有益になることを紹介してくれる。

これは昔から変わらない信用の扱われ方の普遍的なものであり、職人さんの世界や様々な業界ではこれが中心に世界が回っている。

一方、変わったことに至っては、クラファンなど、アクションを起こす人がいて、それをサポートする人の出資により、プロジェクトを成功させる、または情報を広めるといった点だ。


そんな風に信用の扱われ方を理解し、自分を分析してみたとき、換金下手だなぁと。


自分が色んなことやってしまっているが故に、仕事の紹介もされにくい状況にあると思うし、何かアクションを起こすとしても、自分のコンテンツを今持っていないために、出資を仰ぐものも特にないという状況だ。

信用を換金するためには、自分で自分のことをよく知り、かつ人にわかりやすくそれを伝える。その必要がありそうだ。


非常にシンプルなことではある。

だが、しかし。

選択肢多き現代において、却って難しい、というか。そんなトラップにハマってしまっているのかなと、そんなことに気がついた今日このごろ。